壷口明清埠頭
- 黄土の風情
- ソース:壶口瀑布
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明清時代は黄河の水運の最盛期で、壷口滝の天険に阻まれたため、往来する船はここで貨物の積み卸し、修理、焼香祈り、食事と宿泊の取引を行い、しばしば数日間はとどまる必要があった。そこで、壷口滝の岸辺の龍王辿は水陸と干ばつの埠頭を形成した。龍王辿最盛期には、百軒近くの屋号、数百の窯元、上下に3つの街道があり、遠望が軒を連ね、独特の風格をしていた。当時、ここには銭荘、質屋、酒場、料理屋、客桟、塩屋、染物屋、毛皮屋、雑貨店、薬屋などの店がそろっていて、清代乾隆年間に特に隆盛だった。また、春秋の年に2回の集会があり、各省の客商や遠近の村民が集まるほか、龍王辿のいくつかの屋号は劇団を招き、竜王廟や馬王廟の舞台で公演して盛り上げるなど、物資交流の雰囲気を醸成している。清代の学者賈遇時は『龍王辿賦』の中でこのように描写した「ここは、山勢巍巍、重なり合って万尋、河水浩浩、波浪千層……断崖のように危険、舟航ここまで来て、水を捨てずに上陸することができるだろうか。客船の星集で、魚貫の連なりのように、店の林は、雁行の絶えないように、東西の要路、南北に通ずる地である。春秋二季、水陸埠頭、蓋莫長この地、利を求めて枝を折る、遠く四方の游民を招く……地は偏に小さいが、泾阳川に恵まれ、弾丸のような小さい町だが長安八水にも勝る」と、当時の隆盛ぶりをうかがわせる。
前世紀四十年代、京包鉄道(北京--包頭)と南北道路交通幹線の建設と使用に伴い、また抗日戦争中に壷口一帯の埠頭、渡し場が閻錫山に軍事的に制圧されたことから、黄河中流の水運は次第に冷め、畑行船は次第に歴史の舞台から退いた。50~60年代以降、上流から降りてくる商船はめっきり減り、70~80年代になると、さらにごくわずかだった。90年代初めには、一年に一、二艘の船が通過することもあったが、船主はもはや庶民を雇って船を引くのではなく、トラクターや自動車を雇ってタバコ一袋の手間をかけることなく、船は「ベタ口」に引き寄せられた。「みんながそれぞれ肩を背負い、老幼が力を尽くして叫び、峡谷に号令が満ちる」ような壮観な光景は、それ以来、二度と見られなくなった。龍王辿の波止場はかつてのにぎやかな光景を失い、ただ一列に並んだ窯元が昔話を語りかけている。